かえでんの歴史を構築するにあたり、実際の各市町村誌を参照し考察の手がかりとしました。ここでは参考文献及び該当箇所の引用文を掲載しています。

村上線に関する記述
――旧下越鉄道,岩船交通

瀬波温泉は(大正)十四年、東京読売新聞社がおこなった避暑地人気投票で一四位に入っている。要因をあげれば、全国でも稀な常時自噴泉と白砂青松の海水浴場、さらに地元食材を活かした郷土料理などが高い評価を受けたと考えられる。羽越線全通のころ(大正13年)は、東日本においては知名度の高い温泉地に成長していた。

『村上市史 通史編3』. 村上市,1989, 415p

本村においては、佐々木、真野の要するにバス路線が昭和五年ころより、新潟自動車商会ならびに新潟両新自動車株式会社がほぼ競争で走り始めた。

『聖籠町誌 増補版』. 聖篭町誌編さん委員会,1978,111p

明治・大正のころ、人や物を運ぶのにたいせつな働きをしたものに、川船があった。「河岸場」という地名は、旧 加治川が河川交通で栄えたころの名残である。当時の船大工渡辺勇次の話によると、「川幅も広く、長さ七間四尺 (約十三メートル) の川船が約四十隻も使用されていて、主に新潟へ米、材木、しょう油、みそ、砂糖などの日用品を、三日がかりで運び、夜は船の中で泊まった。荷物を扱う問屋も二軒あり、六十台ほどの荷車を使用して、いろいろな品物を中条・村上方面へ運んでいた」という。

『紫雲寺町誌』. 紫雲寺町, 1982,191-192p

殊に中村、笹口両漁落の如きは、近来漁獲少なく、住民の生計殆んど難しとなす。

『中条町誌 資料編第四巻』. 中条町,1982,397p

岩船の人はむしろ鉄道の通ることを望んでいて、積極的に路線の通る運動を展開していた。しかし、地質調査の結果、八日市区域は鉄道を通す地盤に適さないということがわかり、現在の小口川地域に路線が決定することになった。

『神林村誌』. 神林村史編纂委員会,1982,370-371p

阿賀野線に関する記述
――旧阿賀野貨客軌道

乗合バスは水原-保田、保田-五泉の二路線の許可を得ていたが、木造の安田橋に危険が多く、阿賀野川が増水すると五泉行きは時々運休した

『安田町史 民俗編』. 安田町,1997,170p

川を下るときは、川の流れに任せて下るが、帰りは川を上ることになるので、人が綱をつけて舟を引いて上る。従って下りと上りでは、船の道が異なっていた。(中略) 川を上るときは、何艘かの船が列をなして上り、急流にさしかかった時は、船頭や綱引きの人たちが全員で一艘づつ引き、急流を乗り切ったという。このようにして新潟から津川まで上るのに五日、天候の悪いときは七日もかかった。

同上 172p

この時(大正二年大水) は、阿賀野川上流に豪雨が降り、たちまち下流が増水し、至るところが破堤し、流失家屋、浸水家屋、床上浸水、田畑の被害が多大であった、その年、作物の収穫は殆どなかった。津川のキリン橋五泉の馬下橋、京ヶ瀬の中新田橋が流失した。ものすごい大洪水であった。

同上 178p

明治17年3月23日に新潟県会議事堂で開かれた北越鉄道発起会において出された、5通りの直江津以北の鉄道敷設案中にある。5通りとは、
・第一線 直江津より柏崎、別山、島崎、弥彦、赤塚、新潟を経て新発田に至る。ただし、別山・島崎の間より長岡の川西まで支線を敷く。
・第二線 飯山(長野県)より寺石、千手、小千谷、長岡、三条、新津、水原を経て新発田に至る。ただし、新津・水原の間より亀田を経て新潟の川東岸まで支線を敷く。
・第三線 直江津より柏崎、関原、与板、地蔵堂、巻、新潟を経て新発田に至る。
・第四線 直江津より柏崎、長岡、三条、新津、水原を経て新発田に至る。ただし、新津・水原の間より亀田を経て新潟の川東岸まで支線を敷く。
・第五線 前橋(群馬県)より清水越(峠)、六日町、長岡、三条、新津、水原を経て新発田に至る。ただし、新津・水原の間より亀田を経て新潟東川岸まで支線を敷く。
(「新潟新聞」明治17年3月25日 里程は略)

以上の五案であった。このうち第二・第四・第五の案では、いずれも「新津・水原の間より亀田を経て新潟」に至る路線が考えられている。この三案のいずれかが採用されれば、「新津と水原の間」として沢海村または旧横越村あたりが選ばれたに違いない。中間的な位置であることや、水運・陸路の要地であること、伝統のある地域であるなどの条件も調っていた。しかし、明治18年に北越鉄道の企画はいったん頓挫し、路線敷設の案も立ち消えとなった。

『横越町史』. 横越町史編さん委員会,2000,596-597p

京ヶ瀬村小河原地内に信号所が設置されたのは昭和十八年九月である。

『村誌 増補版』. 京ヶ瀬村,2001,202p

京ヶ瀬村でも、これに呼応して駅昇格運動が起こったのが昭和二十五年頃である。当時国鉄関係者・その他通勤者や、地元住民から、駅昇格運動が起こり、何とか、ガスカー(ディーゼル動力車)だけでも停車出来ないものかと、村当局や、鉄道管理局長(間瀬局長と記憶している)に陳情したのであるが、その時局長は現在の信号所は、京ヶ瀬村の端っこに位置しているので、この際場所を変更して、分田街道踏切附近(前山〜箸木免の中間地点)が村の中心であり、利用度もよいのではないか、との話しであったが、当時村当局としては財政面から到底不可能であるとの理由から、結局現在の場所で簡易ホームを造り、ガスカー停留所として認可されたのである。これが昭和二十五年である。

同上 203p